絵師三戒堂を語ります

何のために
絵かきになるんだろう?
絵かきになって何をしたいと言うんだよ?
自問自答が自分を苦しめていた日が長く続いたのだ。
15歳からクロッキー教室に通い、久富金之助先生にデッサン基礎をしっかり教えて頂
き、カロン神父様から油絵の指導を受けていた。
父は
川原乞食になるつもりか!
そろばんを私の目の前に突きつけて、月に幾ら稼げるか計算してみろ!
黙って答えられず、涙の上目遣いで見つめると、そろばんに合わない道を選ぶなら親で
も子でもない、っと兄貴とは相当な差別の扱いが始まったのだった。

公立高校を落ちたら、そのまま丁稚に出すからな。っときつく脅されたのだ。
兄は大学までエスカレーター出来るという、当時は慶応より高いという学校に行かせても
らっていた。
差別は家庭の中でもあからさまだった。
丁稚上がりの商人という根っからの人であった父は、そんな不安定な道を選ぶ事が許せ
なかったのであろう。

何のために生れてきてしまったのか?
豚でも良かったのに、なぜ人間になってしまったのか?
大学と言うところを出ても、たいして立派そうでもない人々、
何のためにそこに行くのか
絵かきになれば
それしかできない阿呆になれるに違いない
たった一つの道しかわからない人間になれるに違いない
だから絵かきになるんだ。
っと決めたが
絵が特にうまいわけでもなかったのだ。其の生き方をしたかったからだ。

今になって思えば、どんなに絵かきの道を選ばなければ良かったどうか、もっと商人にな
って大金儲けが出来たかもしれないと悔やんだことだろうか?

絵かきになって何をしたいと言うんだ?
自問自答の苦しみの淵に自分を追いやる毎日だった。

芸術家としての生き方をしたいという願いは内側からわき起こるばかりであった。

高校へ行っても、席が後ろであったことを良いことに、絵ばかり描いていた。
どんどん成績は落ちるばかりであったが、生徒会や応援団と言った方にばかり気が向い
ていった。

当時は油絵をやるという人は町でも少なくて、たった一軒ある画材屋に毎日のように立
ち寄った。
筆が一本500円もするのだ。
なーんだそんなに安いのかっと今では思いますが、そのと当時は学食が50円で食べら
れる頃だった。
筆一本欲しくて、昼を食べないで金を貯めたこともしばしばであった。

金がなければどうにも絵の具やキャンバスも買えないので、父に切り出した。
いっさい服も何も買わなくて良いから、自分でやるから月に一万円くれないかと言うもの
だった。
父は商人のせいか、それを面白いと受け取ってくれたようで、毎月一万円という大金をく
れうることになったのだ。
そのころの最高の初任給が16000円を超えるかどうかと言う時代だ。
駅の前の月賦販売デパートまるいでは背広6000円を10ヶ月月賦で買う時代だったの
だ。
それでも、
絵の具代金にすぐ消えてしまい、いつも足りなかった。
シャツは一枚をいつも着ているし、とにかく身の回りは絵の具だらけで、タマに家族で食
べに行くから来なさいといわれると、父は汚いから離れて後ろからついてこい等と言う始
末だった。
気に入っていたコールテンのシャツは何年も着ていたので、ちょっと引っ張られただけで
引き裂かれてしまうのだった。

友人達はキャンプにボーリング、など遊んでいるが、自分はいつもお金がなかった。
こんなクソ貧乏なところに生れて、絵描きにもなれやしないと心の内では恨んでもいたほ
ど、世間知らずであった。おかげで遊びは何も出来ない人間になってしまった。勿論たば
こもやらないし、そんな金が有れば少しでも良い額や絵の具が欲しかった。勿論床屋代
がもったいなかった事は言うまでもない、ある日床屋に行って、薬で全部剥がしてくれろ
と言い出すと、そこの親父さんが、何でまたそう言うことをと問いかけるので、二度と床屋
に来たくないからですと答えて、ひどく叱られてしまった。はやしたい人が多いのに生えな
いようにしろとはなんてえやつだよ。っと言うのだ。

ずっと後になって、父が70歳の誕生日に、全員に遺産分けをしてしまったが、私の番に
なると、お前には一円もないぞ、すでに家を二軒も建てるほど使ってしまったからなと、
言い渡され、産んで下さっただけで十分ですと答えたが、釈然とはしなかったが、だんだ
んと自分が、自分の子供達にしてやれないことを父がしてくれたのだと、感謝に変わって
いった。

とにかく、キャンバスが欲しいし、筆も絵の具も欲しかった、17歳の頃には、渋谷の絵の
具店うえまつに通い、天然絵の具を買っていた。今は亡きおばあさまにかわいがられた
ものだった。とっても貴重な珊瑚で出来た絵の具など頂き大切に使わせて頂いたのだっ
た。おつきあいは今も続き、40年を越してしまった。

日本画の技術など暗中模索で、とにかく本物で練習するしかなかった。

古い仏画など買い求め、剥がしたり切ったりしながら、キリガネの技術を再現しようとし
たり、藤田画伯のような筆使いが出来るようにと、夜明けまで密かに練習したりした。
溝の口教会のカロン神父様に出会い、デッサンの基礎を指導して頂き、ついで久富金之
助先生に厳しく指導されたことが、後々の仕事に大きく役立った。
自分では京都の美術大学へ行って手書き友禅の仕事でもしたいと願っていたが、父は
絶対に許さないとのことであった。勿論それが良かったのである。そこに入り込んでしま
えばデザイン画の方に言ってしまい純粋アートへと心が向かなくなってしまっていただろ
うからだ。

模索中だがいっぱし画家気取りでもあった。
19歳で始めての個展を企画した。東京自由が丘にあった桃山という高級喫茶店に出向
いて店長に掛け合い、個展をさせて頂いた。一点売れただけであったが嬉しかった。
それから、近所の人が聞き伝手で絵を買ってくれる人も出たのだ。
画材にかかる金は湯水のようだった。

日本色彩研究所事業部というのが近所にあって、偶然の出会いから、そこの技術責任
者に呼ばれて、3000色の色体系の仕事に従事したことも、この世界を歩むことにとっ
て幸せなことであった。

少しでも芸術の方に近づきたいと、インテリアデインの学校に通い、そこで戸田正寿君に
出会い、展覧会の方向に目が向いていった。グループを作り、銀座村松画廊などで盛ん
に発表した。

その学校には当時のそうそうたるデザイン漫画、評論家が集められ、理想的な勉強が
出来たのだったが、所謂学校やと呼ばれる事業家の仕事で、うまく法人格を取得できず
に消滅した。手塚治虫先生、永井一正先生、山城隆一先生、植村鷹千代先生、徳川無
声、横山隆一先生方など、とても近づけないような先生に講義して頂いた。川口設計事
務所の川口先生や、東大の建築家の先生、色彩楽は大池浩先生と恵まれた環境であっ
たことも今の自分に幸いしていると感謝している。

しかし
此の楽しい2年が終わった時から、人生流転の荒波が背中で逆巻いていようとは誰が知
っていただろうか?

アメリカに留学したいと画策し、植村鷹千代先生にお願いして、留学先まで決まったとこ
ろで、右腹が痛み出した。父は珍しくおぴゃの死に目にも会えないようなことするのかと
言う始末。病院では止めろと言われ、ついに断念してしまった。
その前に、金を作るために、誘いに乗って、ハワイでロケがあるから、美術制作の仕事
でこないかと言うのだった。当時は海外に出ること自体大変な時代だった。数日行ってき
ただけでも、洋行帰りなどと言われた時代だ。今考える滑稽だが、日本人の誰でもが気
軽に飛行機に乗れるとは思われなかった時代だったのだ。
二つ返事で了承すると、いよいよになってハワイによく似た九州の芦屋海岸でロケする
ことになったというので引くに引けずに、勉強を投げ出して参加したのが、トラトラトラの
映画だった。
そこで、宝塚映画の近藤司さんにかわいがられ、側砲と主砲、カタパルト等の設計図を
書き上げた。金にはなった。
気に入って頂き、入社を強く勧められ、家にまで親に電話してくださったが、アメリカに行
きたかったことと、金と色の業界の裏を知ってしまうと、自分が危ないと思い、また純粋
アートから離れる気がして、お断りしてしまった。黒沢監督は自殺未遂を起こしどうなる
かわからないところになってしまったが、完成して世に公開されたのだった。

ドクターストップになったアメリカ行きが頓挫してしまい、なんだか人生の目標を見失い、
ままよと結婚してしまった。とにかく金がなければ絵描きになれないと、商売を始めたの
だった。

サンドウィッチハウス・ピーターパンを開店させた。
金がなければ絵描きになれないと踏んだからだった。
その店を建てたところがかつて沼だったそうだ。そこに平家の残党の首を切って捨てた
というのだった。それで、えきまえがはやらないという人もいた。現在は駅前から一丁目
だがかつては逆だったというのだった。
そのころの私は、人生とは何だろう、なぜ生きているのだろうか?悟りとは何だろうかと
苦しんでいた。折しも禅宗の最高権威と言われる人の著作集が出版され始めたので、3
3巻を毎月読み通していた。一冊3300円という高価な本であった。
全く理解できないながらも、徐々に何かが見えてくるようであった。

そのころ、不思議と禅宗の修行僧の若い人たちが夜な夜な店に遊びに来るようになって
きた。また乞食をしながら修行している白根からの坊さんが、親しく口をきいてくれるよう
になった。
ある日其のお坊様に悟るとはどういう事ですかと尋ねると、突然それまでとは違った人に
なり、知らない私はそんなことと考えたこともないっと強く言い放つと、くるりときびすを返
して行ってしまった。
またある日には、悟ると言うことは、急に犬にほえられても驚かないようになることだとも
教えてくれた。
そのころ、東京の大橋付近を通と、神理の会という看板が目について、訪ねて見たくてし
ょうがなかったが、今ひとつ踏み込めなかった。それが高橋信次先生が後のGLAと言う
会を主催し始めた頃だったのだった。巡り会うまで6年が経ってしまうのでもあった。

新潟のアマンドで料理の修業をして、腕は日ごとに上がっていった。数ヶ月後には私の
仕込んだミートソーススパゲッティーをには食べて帰る人が出始めたのだった。

そして店はできあがり、先のように繁盛をし始めたのだった。
その頃精神世界に傾倒してゆき、愚かな坊さんばかり目につくので、落胆の末自分で悟
るしかないとばかりに、見よう見まねで瀧にあたってみたりした。
しかし、そこでわかったことは
そんなことをしても悟れないと言うことだけだった。
毎晩のように蝋燭の火を見て精神集中している内に、自然と催眠術が出来るようになっ
てしまっていた。
また、目を閉じると、切り落とされたばかりのような血糊がべったりと付いた、侍のざんば
ら髪の生首が、数百嫌もっと数え切れない程私を取り囲むように、何か頼むように見え
始めた。恐ろしくはなかったが、これはいけないと思い、心の中で彼らの冥福を深く祈る
と、その日から消えてしまったのだ。

友人達は東京で発表をしている。自分が取り残されるような焦燥感が有ったことは否め
ない。
そのころ、二人の高校生が訪ねてきた。
高木孝君と、土田君だ。
土田君は綺麗そうなペンガを持ってきた。俺なんか駄目だと恥ずかしそうに出した。
ビアズリーのコピーのような作品を高木君が持ってきた。
その裏にある才能の深さにびっくりしてしまった。
きっと作家として大成するだろうと見抜いたのだった。
弟子が出来てしまった。
彼らにコラージュの面白さを教えると毎晩一点以上の作品を作って持ってきた。
さらに、現代絵画の本を買いまくり、ラウシェンバーグのやったであろう、シンナーによる
印刷物の逆転写、等々見せ合ったり、話し合ったりして、商売どころではなかった。
高木君はついに有名グラフィックデザイナーになり、孝明堂という骨董屋まで開いてしま
った。クリエイトをもじって、栗八商店というデザイン会社もやってしまったのだ。
そのころ、私の店に山茶碗の大きな物をカウンターに置いておき、これをいいなあという
人だけを弟子のようなものにしたのだった。
今思えば、二十歳ばかりの自分がずいぶんと思い上がった時代であった。
息子が生れた。ブッダの秘書役のアーナンダにちなんで、阿南と命名したが、数日して
役所から電話があり、この名前は駄目だというのだ。阿の文字が名前に使えないと言う
馬鹿らしい回答であった。まさしく唖然としたのだ。(今はよいのだが)
争っても仕方ないので、石田三成が好きだったので三成とかいて、カズシゲと読ませた。
実は石田カズシゲが正しい読み方だからだった。
石田三成の人への気遣い、最後まで希望を捨てない、等の生き方が好きだったからだ。

絵師になりたい。その思いが突き上げてくる。東京で仲間が個展をしていると言うだけ
で、血がむらむらと騒いでくるのだった。

その反面、商売の欲も出ていた。早く金儲けしたい。後はのんびり絵を描いてっと勝手な
夢を見続け、仕事ばかりで、家庭を顧みなかった。
東三条のデパート様なところに、誘いに乗って出店してしまったが、これが大詐欺集団の
経営コンサルタントグループであったのだ。

でたらめな内装費用をふっかける、私は、建築を少しは理解していたので、争いになっ
たのだ。御茶屋の未亡人など、とんでもない金額を払わされ、苦しんでいたのだ。
このコンサルタントと三條の料亭でやり合った。
金を返すと言うので、渡辺というコンサルタントだったが、東京まで出向くと、そんなこと
は言った覚えがないと言うではないか。

腹に据えかねて会社にр入れると、会社は取りつぶされ、担当者もいない。コンサル
タントなど言う輩は、自分の会社を肥らせる悪辣なやり方で、小さな会社に分けておき、
不都合があると、つぶしてしまい、仲間の会社、同じフロアーの部署に吸収して知らん顔
だったのだ。
腹に据えかねて、次の日東三条裁判所に訴えを起こした。
すると有ろう事まいか、窓口の裁判所の職員が、このデパートの大社長に、訴えられま
したとご注進申上げたのだ。とあとでわかった。そんな理不尽なことが有るかと、くってか
かったが、私が23歳という若さであったと悔やんだ。違法行為を裁判所がするのであ
る。国民は信頼する場所を既に失っているのだ。
コンサルタントの社長は居留守ばかりだったが、デパートの専務が、現金を持って無か
ったことにしてくれと謝ってきたのだった。
その当時の私は、真っ赤なシャツにズボンという出で立ちで、東京ではなく新津という田
舎では、皆が目を見張ったのだ。

当時ではオトコが真っ赤なシャツとズボンなど、女でもあるまいしという概念に凝り固まっ
ていた日本だったのだ。それが私のそのとき渡り合った出で立ちだった。

それからが激動の始まりの幕が開いたとは自分でも知らなかったのだ。

戻った金で、東京に画廊を出そう、少しでも芸術に近づきたかった。
女房に店を任せ、京橋に小さな画廊を出してしまった。繭山龍泉堂三の向かいだった。
友人だった戸田正寿君が命名してくれて、1画廊にした。

まもなく、新津の友人が東京に来たので食事をした。その夜銀座の裏通りのトランプ占
いをしているおじさんに見てもらいたいと友人が言うので、渋々ついていった。
友人は良いことを言われていたが、若くして世を去った。ソンなことは一言も言われなか
った。私もやってみたいと内側からの突き上げで頼んでしまった。

引いてみると、スペードの1がでた。
占い師のおじさんは、あんたの店は三月でつぶれると断言した。何を言うのかこんなモ
ンで判るわけないでしょ。もう一度、やらせてくれと頼んだ。
何と又スペードの1が出たのだ。
ほらご覧、、駄目だよ。何度もやるモンじゃあないんだよ。
いや今度は良いのを引くから、最後にもう一回だけ引かせてくれとダダをこねて、渋々差
し出すカードを選んで裏返しておいた。

な、なんと、またまた、スペードの1が出たのだった。
不気味さに不安を抱いたのだった。友人は慰めてくれたが、其の占いがあたっていたの
を後になって知らされることになる羽目に陥ったのだった。

そのご、幾ら探しても、その占い師のおじさんを捜すことが出来なっかた。
そのとき、こうも言われた。あんたの人生は、気の毒だが、全く駄目だ。
そんなぁ、何か一つくらい良いことは有るでしょうに。
うーーーん
有るにはあるが、あんたにゃあ無理だ。
えっつ、なんですかそれは??
あんたが、芸術家なら別だよ。芸術の道を行けば、女の方から金が出て、助けてくれて
成功するじゃろうが。。。。。
なんですって。ぼ、ぼくは、絵描きなんですよ
そうかい、それなら別だ。あんたは使えば使うだけ金が入って来るという相なんだ。
女難の相も出ておる。それは中学生の時に言われたことがあった。
そしてもう一つ、そのおじさんは、恐ろしいことを私に告げたのだった。

あんたは、この世で数少ない完全犯罪の出来る人だから、決して悪事をしないよう
に、、、よいな。
その一言で、思い当たる気がしたのも本当だった。事件を見ていて、おれならこうするが
な、こうやれば絶対だよなどと、思いめぐらすことがしばしばあったからだ。

自転車操業、しゃっちょこだち画廊は、なんとか家賃を払いながら、続けたが、ずぶしろ
が出来ることではなかった。、
そこで骨董品で儲けることにした、毎日、鍋や横町から、京橋まで、あさから骨董屋を歩
いてみて回った。そこで見つけた物を、青山で売ったりと、しのぎをしていたのだった。
小野忠広先生から譲ってもらった、仏像をある人に売ったが、夜になって鎌倉に呼ば
れ、嘘つき泥棒だと、その人の友人に怒鳴られて偽物騒ぎになってしまっ。
若気の至りで、引き取ってしまった。利益は五割も先に喰ってしまっていたのだから、店
などやってられなくなり、全てを売り払ってみると、何と占い通りの三月目だったのだっ
た。

愕然として、死ぬしかないと苦しんでいるとき、戸田君に電話した。店を閉めたとなると,
小野先生へのご迷惑や、落ちぶれる者へは友達でもないと言うことか、自殺したいんだ
と告げると、アーソーですか、忙しいので失礼しますっと、冷たくрフ向こうで響かせてく
れた。落胆して、何気なく映画館に入り、暗闇で、涙が頬を伝わっていった。
父に相談しよう。そう思って、父の家に行ってみた。玄関を開けると、丁度父が二階から
降りてきたところに出っくわした。
お父さんっ、と力無い声でつぶやくと、父はまだ数段残した階段で、
お前、金がないんだろ。良かったな!
そう言うなり、そのまま二階に無言で逆戻りしていった。
もうだめだ。

ちょうど、そのとき、戸田正寿君の銀座の個展のレセプションだった。
その夜。ものすごい天才現れるという画廊の呼びかけで、客は結構来ていた。
戸田君っと呼びかけると、彼は冷たいまなざしで、私を見るや、避けて向こうに行ってし
まった。とりつく島もなかった。仕方なく、最後の金で、彼の一番良い作品ピンクの奴と白
のやつを二点現金で買い上げた。個展の最初の売り上げだった。せめてもの友情の証
だった。それは父の家に届けてもらうことになった。しかし値上がりもしなければそれ以
上画家として世に出てこなかったが、デザイナーとして有名になっていた。数年後結婚し
たと聞いた。友人を介して会いたいと言ってきたが、断ってしまった。計算高いずるい奴
だとは前から知っていたが、手のひらを返す友人は杜子春の友人達のようだったから
だ。戸田正寿という男は出世を夢見る田舎もんだった。どんどん商売したり目立つ私に、
いつも言っていた。出世したら俺を引っ張ってくれ、俺が先立ったら引っ張るからと。しか
し、平気で友人を裏切る奴なのだ。かわいそうな心の腐った奴だ。

その夜。
鍋屋横町の日の当たらないアパートに戻ると、自殺することだけを考えた。
何で死のうか、ガスにしようか毒にしようか、天井を見ながら考えて自分のしてきたこと
の愚かさに涙が出た。
何も考えられなくなり涙が、口に入り苦かった。
そうしている内に寝てしまったようだった。

そのときに夢の世界が開けていた。
白い雲の上に私が座って平伏しているのだ。其の前には、杖を右手に持った白い髭の
白髪の大きな体に真っ白いふわりとした着物を、そうだ、天使の様な着る物だった。
その老人が、お前はなんてえやつだ。ここへ来るのはまだまだ早い帰れっ、と雲のはじ
っこに平伏して見上げた途端、その杖で、おもいっきり胸を突かれ、雲の下に突き落とさ
れたのだった。ひゅーっともがきながらどすんと落ちる体感が今でも忘れら得ない、そこ
で目が覚めると、鍋屋横町の汚い部屋だった。

それから一晩考えてみた。
世の中には何億と借金しても平気な人もいるし、あと数万円が出来なくて一家心中する
人もいる。一体自分は幾らで死のうというのか?考えてみるとたいした金ではなかったの
だった。自分を追いつめるとはこういう事であったのだ。
捨てきれない自分の有ることに気が付き、もう一度一からやり直そうと、次の朝早く、築
地の市場に行ってみた。以前働いていた丸文さんの車を見つけ、それでも中に入って行
く勇気が出なかった。
そのとき
あ、なべさん、っと、ぶんちゃんと呼ばれる社長がいつものようにまるでぴょんぴょん跳ぶ
ように出てきて声を掛けてくれたのだった。
どうしたのか聞かれて、商売を失敗して、仕事探しに来ましたと伝えると、丁度よかっ
た。今すぐ内に来てよ。女房が喜ぶぞっと、そのまま車に乗せて連れ行ってくれて、以前
お世話になって慣れた仕事だってので、その日から働かせてもらったのだった。

給料の大半は返済で消えていった。
時折戻る新津では、家内が議員の息子に心寄せ始めていたことを感じつつあった。
思い切って、店を閉めさせ、丸文の車を借りて家族を迎えに行った。
酒が飲めないことを家内の父親になじられていたので、その夜は一升瓶をラッパ飲みし
て、倒れてしまった。
次の日、酒が抜けてないまま、家族を乗せて東京を目指した。
しかし、他の男性に心を寄せた彼女は、私と手をつなぐのも嫌がり、女が欲しいなら、外
でやってきて言うのだった。
24歳の健康な男性が、隣に寝ている女房をさわれもしないと言う苦痛を毎晩味わった
のだった。

そしてついに離婚へと発展してしまった。
四歳のかわいい三成と引き裂かれることが、魂を砕かれるように苦しかった。
三月ごとに会わせるという約束の初めての日、新潟に出かけた。
一日中息子と遊び、彼は疲れて私の腕の中で眠ってしまい、おしっこまでしてしまってい
た。迎えに来るのを待つ間、盗んで帰りたかった衝動に駆られてつらかった。

引き裂かれる思いで手渡して、遠ざかるタクシーを眺めて、明日の仕事のために、夜行
列車に乗った。上野まで四時間だった。
私は真っ暗な窓を見つめて、涙がぴゅーっと飛び出て窓に掛かるのを経験した。萩原朔
太郎の無声慟哭という言葉を思い出した。周りの人に知られないで、我慢していたが、
本当の悲しみは、はらはら流れる涙ではなく、心がはっっはっと詰まってゆき、涙はぴゅ
ーっとほとばしるものだと知ったのだった。
すまない
自分のわがままで、離婚すると言えば彼女は考えを変えてくれると思ったからだった。
最悪の結果を招いてしまった。

それから数日して、高橋信次先生のご著書を友人からいただき、もう少し早く知っていれ
ば離婚などしなかったろうにと、わびのр入れたが、遅かったのだった。
其の少し前に、
韓国人留学生で、金杰(キムコル)なる人物と出会った。彼の紹介で、韓国国立博物館
長にもであったのだ。この金というオトコは天才的詐欺師であった。急に自分は忙しくて
ゆけないから、申し訳ないがどこそこに行って品物を受け取ってきてくれろ言うのだっ
た。留学生でもあるし気軽く手伝ったが、それは私が注文したようになっていて、私が取
り込み詐欺をしたかのようにずっと後になって、言われて面食らったことがあった。
日本人が朝鮮人を嘘つきだと決めつける原点を見たように思ったのは後の祭りだった。
国立博物館の館長と食事をしたとき、仏画のキリガネ技術が昭和14年京城作というの
を見たのですが、そう言った技術は残っていますかと尋ねてみた。ご存じではなかった
が、ソウルにおいでくださいというので、その気になって、行くことにしてしまった。仕事も
辞めて、旅立つ一週間前に高橋信次先生と出会うことが出来た。

韓国で強烈に君を呼ぶ魂が有る。ソウルに行けば待っている人がいるから、今まで苦労
したから少し休んできなさいと言われた。そしてご著書をよく読むようにとも言われた。ま
た手紙で指導してあげるからとも言われ、数度たが、おそらく受付で破棄されてしまった
のだろう。役人的なものをすぐ作り上げるのが組織だからだ。

トントン拍子で留学が決まり、ソウル市内の日本書籍店で高橋信次先生の本が次々と入
手できたのだった。

まだ李朝の名残が十分に残る韓国であった。街には古い写真から抜け出たような民族
服の老人がたむろし、あるいは歩いていた。ソウルの街では馬車が練炭を配達してい
た。まだキーセン職という身分証明書が発行され、それが無ければホテルに泊まれなか
ったのだ。新婚夫婦でも、結婚証明書の戸籍が出来てないで新婚旅行に行ってしまえ
ば、別々の処に止まらされたのだった。
その証明書が世界的に不名誉だというので、73年には廃止になったが、そのために売
春は国中に満ちあふれたのだった。恋人のいない主婦はいないとまで言われる現在に
なっているのだ。中学校の先生が、旅行者に売春斡旋するのを、元生徒達と学校電話
で連絡を取るのを目の当たりにしたこともあった。

それはさておき、
出会いというものは神にしか作れないとずっと後になって耳にしたが、まったく不思議な
出会いが連続した。
戦後初めての外国人として、ソウルの新世界美術館で個展を開く計画を立てた。何と会
期一週間前になって、担当者が、日本人にはやらせないと連絡してきたのだ。こっちは
表具も終わり、後は展示するばかりになっていたので、当然子の理不尽さに講義をする
と、レセプションに招待する人々のリストを出せと言ってきた。そこで、李お受けの正子
妃殿下を始め、かなり日韓の有力な人々を列記すると、今度は社長命令で開催しろと言
われたそうだ。だが。日本人の名前は出せないと言うのであった。それはそうだろ。何し
ろ戦後初めての外国人展覧会が、反日思想の高いソウルでやるのが、有ろう事米か日
本人なんだから。
しかし、時刻の芸人が日本に行って稼ぐのは奨励するのだから、矛盾というか韓国人的
身勝手さと言うのだろう。
そこで、当時使っていた雅号であった甘露人という垂れ幕と、画集で幕は開いたのだっ
た。
レセプションは大変なにぎわいで、8割が売れてしまった。
その次の日二日目に会場を見回って、顔から血が引く思いがした。
仙人がトラと楽しく横たわっている画題なのだが、拳で叩き破られていたのだ。
私はそのまま展示を継続した。
韓国人が見てどう感じるかが問題だからだった。
民度の低さを、自ら露呈した行為のなのだ。
そこへ、大学院の先生がみえた。彼は、この作品を是非買い取らせてくれと申し出てくれ
た。日本語も流暢で、紳士的な学者であった。
私はそんな方がおられることに、ここで学ぶ希望をつないだのだった。

そのご、いろいろ交流も広がり、韓国人画家の個展などに顔を出すと、同じ顔ぶれに出
会うことが多かった。そのとき、有る画家にあんたは八方美人だねえっと言われ顔から
火が出る思いがした。しかし、この八方美人というのは、韓国ではかなりの誉め言葉で
あると言うことを後に聞いて、こうも解釈が違うものなのかと感心してしまった。
余談だが
偽装結婚で水商売で稼ごうと来ている韓国女性が、金持ちそうなお客に、マー〜〜、ブタ
みたいにかわいいわ!!
と誉めたつもりで、怒りを買うことが多いのだ。
韓国では最高の誉め言葉が、日本では侮辱に取られることもある。

それから半年して、紹介されて、朝鮮ホテル画廊で二度目の個展をした。
このときも大盛況で、完売したのだった。その会期中にガボン大統領が来て、朝鮮ホテ
ルを借り切ってしまい、私の個展を延期白戸まで言ってきて、額の裏まで調べられたの
だ。真、それが当然VIPのお迎えだから。そのとき人身御供に出された女優が産んでし
まった息子が、ガボンにはいるのだよ。それが縁なのだろう、韓国人が、軍事顧問的な
ことまでしてるし、日本人は7人ほどしか住んでないが、韓国人は結構商売しているの
だ。凄い国民だと感心してしまうのだ。

その夏帰国して、7月に銀座で個展をした。殆どが売れてしまうという結果が出て有り難
かった。

しかし、それで食べていけるはずもなく、大工のアルバイトをとりあえず始めることにした
のだった。
そして、高橋信次先生の教えを学びたいと、活動に参加したのだった。さらに再び丸文さ
んにご厄介になり務めさせていただくことになった。帰国したご挨拶に伺うと、以前と変
わらずに、すぐ働いてくれと云うことであった。
そのころビデオというものが世に出始め、新品で50万円という途方もない値段だった
が、高橋指示先生の経営する、高電工業の和賀井さんの取り計らいで、中古を半額で
入手して先生のビデオを見ることが出来た。またそのころ、韓国の仏教大学の学長が東
京を訪れて、面会することになっていたので、さらにもう一台入手して、先生のビデをテ
ープとともにおみやげに持って帰ってもらった。それが韓国には初めてのビデオの機械
であったのだ。なんと、ものすごい税金を取られてしまったと、大分後になって伺ったの
だった。

次々と制作に励み、朝早く仕事に出て昼には終わり、アトリエを中間地点に借りて、夜遅
くまで仕事に熱中した。家帰るのは終電間際であった。

水墨画の教室をご厚意で開かせて頂き、多くの仲間が出来つつあった。
子供も二人目が出来ていた。
そのころ、絵だけでやって行く決心もしていた。
二番目の子供は未熟児で、丁度仕事を全て辞めたところであったので、毎朝母乳を届
けるために、小さなバイクで、高津から渋谷の日赤病院まで突っ走ったのだった。

その少し前、高橋信次先生の後継者が佳子先生であることが判り、その直後、1976年
6月25日に帰天されて、77年の誓いがなされたのだった。私はまだ丸文さんに働いて
いたが、折しも会合に出るために急いでいて、地下鉄の階段を踏み外し、左足の甲を折
ってしまったのだ。そのため一ヶ月も休ませて頂いた。明日から出させてもらいたいと思
っている矢先、GLAから夜に電話が入った。明日からの箱根の佳子先生の研修会に、
パネラーとして出てくれと言うものであった。
それまで、とても休めなくて一度も研修会に出ることが出来なかったのに、丁度足を怪我
したおかげで、もう数日延ばして頂き、箱根に参じる事ができたのだった。
平井一正さん、と漫画家の宮脇さんだった。どちらも知らない人であった。
そのときの誓いは魂の深いところで受け止め、見えない世界を描いて見せようと言う使
命を果たす決心を深めたのだった。

その研修会でのことだった。もう終わりになり、トイレに行こうとすると佳子先生が裏から
出てらして、ばったりとあい、手を取り合って近くの机に座った。私は絵だけで独立する
胸を伝えた。勿論心配してくれて、大丈夫ですかと聞いて下さった。

とにかく絵描きとして、独立しなければと決心していたのだった。

いよいよ次の月、7月だったと思うが、全ての仕事、といっても丸文さんだが、止めてしま
った。ところが、夏になってみると、東京には人がいなくなったように、絵が売れるわけは
無かったのだ。収入は、日赤の絵画教室で、水墨画を教え始めた位だった。

勿論家でも子供の絵画教室はやっていた。
GLAの青年部の太田支部のリーダーにもなっていて、活動に夜遅くまで興奮していた。
しかし、只活動することが嬉しいだけではいけない、此の教えを生活で実践出来なけれ
ば何にも成らないのだと思い、そう言ったお役を止めさせてもらった。

勿論家族には相当な苦労を強いることになってしまった。
全く売れないのに心配で母が近くであったので、見に来てくれた。描いておけば売れるん
だよと強気で平気を装っていたが、全く金がなくなってしまった。勿論父に借りるなどとん
でもないことだった。時折骨董品を売って一月つないだりしていた。

そんなときに、三間君が遊びに来るというのだ。快く迎えたが、家には米一粒もなかっ
た。だが彼は昼に成るのに帰らないのだった。家内は、引き出しから小銭を探し出し、米
屋に行って、米を100グラムくださいと言って買って帰ったというのだ。そのtき米屋のお
じさんが上から下まで何度も眺めたという。
其の少ない米で、冷蔵庫の残りの野菜を入れて、おかゆを作って、食べてもらった。
食べてないので、おっぱいも出なくなりつつあった。

美味しいと言いながら、お代わりしてくれて、やっと3時ころ帰ってくれた。
 家内は、はらわたが煮えくりかえるほど怒りだそうとしていたときに、また、ドアを叩く人
がいた。
なんと、三間君だった。
平気を装って、
どうしたのっと聞いてみると、実は絵が欲しくて来たんですけど、話が楽しくて忘れちゃっ
て、と言いながら上がり込んできて、椿の絵を、三万円で買ってくれた。
包んで渡しながら、感謝の心でいっぱいだった。ドアをしめて、後ろに立っていた家内
に、其の三万円を手渡した。喜んだ家内は、早速お米を買ってきて、米びつに流し込ん
だ。そのときの音が、どんな音楽より美しかったといつまでも語っていた。
早速夕飯を食べると、みるみる乳が張っておっぱいが出るのだった。母とは凄いものだ
と感じた。自分の栄養ではなくて、まず子供のために身体が働いてしまうからだ。父母恩
重経という中に、母の乳を十石も飲むと書いてあったが、まさにその通り尊いことであ
る。

それでも、個展を渋谷で或は赤坂でと開いて何とか黒字に転じてきたのだった。若い良
き仲間達が支えてくれた。その額に汗して稼いだお金を受け取るときは手が震えそうだ
った。
或る個展会場でのことだった。
若い学生風の男が、通りがかりに入ってきて、一枚の絵を眺めて帰った。次の日も来
た。その次の日も来たので、話しかけてみたら。その絵がとても気に入ったと言うのだっ
た。買いたいのですかと聞いてみると、お金が無くてとても駄目ですというのだった。
じゃあ、幾らだったら出せるんですか?
2万円です。
それは額代が2万円したものだった。
そんな若い人が絵を買いたいという心が大切だと、感謝して、2万円で買ってもらった。
きっと世の中に出てくる人かも知れないと思った。
そのころ、一人の画家がよく見に来てくれて友達になった。池本さんだ。
余り画家とのつきあいを私は好まなかったのだが、彼とはなにか気が合ったのだ。
彼の作品も買ったりした。
自分とは違う感性なので、良く他の人の絵も購入していた。
なぜ画家とつきあわないかというと、酒を飲んで批判ばかりして、学びにならないから
だ。別の世界、つまり音楽の世界のほうが自分の心の学びになっていった。
つまり、絵は見るではなくて、聞くであって、音楽は見ることだと思っていたからだった。

そんな、順風がそよぐ頃に、またまた、激流の押し寄せる兆しを招いてしまった。

個展をしている間は、毎晩のように友人達をさそって、食べては飲んだ。それだけ売れ
ていたのも事実だった。
赤坂で、渋谷でと個展初日に並んでお客が買ってくれるような事が続き、有頂天に成り
罹っていた。
そうだ、家を買うぞ。
30過ぎたばかりだったが、急に家を持ちたくなったのだった。
不思議なことに、平和島の駅から一分の処に一軒家の売りが出ていた。
父に相談すると、お前みたいな職業の人間に金貸すかどうか、銀行に行って、聞いてみ
ろ。バカも休み休み言えと言わんばかりだった。

自分は本当にバカだったから、素直に銀行に、融資を申し込みに行くと、なんと、案外す
んなり話が進んでしまった。
1300万円借りて、土地付き12坪二階建ての住宅を買ってしまったのだった。

しかし不安はすぐにやってきた。
絵の売れ行きは安定していないからだった。
移り住んで数日よく眠れない日が続いたのだ。どうも銀行に毎月払って、国家様に固定
資産税を払って、自分の物だという実感が全く湧いてこないのだった。

夜中にがばっと、布団を蹴って跳ね起きると、一階に降りてゆき、道具箱から五寸釘と
大ゲンノウを取り出すと。柱に、がつんがつんと打ち付けて、釘の根本まで、打ち込んで
しまった。それで、やっと自分のものの様な気がしたのだった。

次の朝、友人の大越さんに紹介してもらって、大森魚市場に働く事になった。
銀行の支払いくらいは安定確保しなければと思ったからだった。そのとき二人目の娘が
誕生したばかりだった。
その頃、GLAの仲間と、アートエンジェルスクラブなるものを立ち上げ、数ヶ月から半年
に一回の割合で、個展とグループ展を繰り返し、年間150点以上が世に出て行った。
京都、大阪名古屋、福岡と足をのばし、東京ばかりでなく展覧会をしまくったし売りまくっ
た。仲間も相当な数の作品が出ていったのだ。皆近所に住み、ルネッサンスを興そうと
若さに燃えていた。

京都でやったときだった。
おかしなおじさんが若い絵描き風をお供して会場に現われた。
東京から何をわざわざ京都に来てまで展覧会をスル必要があるんだと言うのだ。
この人は先生と呼ばれていたが、絵描きではなかった。
私たちはルネッサンスを興そうと思っているんですよ。
それを聞いた此のおじさん、泉先生とか呼ばれていたっけ。
御茶を持つ手が震えだしたのだ。
私も生意気だったから、批評家が作家を食い物にすることに義憤を感じていたところだ
ったので、新聞が私たちの事を書いたら、記事代を請求するんですよと言ってのけてし
まった。
すると、顔面蒼白になり、お前の様な奴は、この京都で二度と開かせないようにしてやる
ど、っというやくざまがいの捨てぜりふで帰っていった。
何と、「自分では京都の芸術は私が作っているんだよ」と言うではないかい。
恐れ入ったよ。京都新聞社の文芸部長だというのだ。
ふざけた話だ。新聞記者が、その地方の芸術の流れを左右できるという思い上がりと、
もらい癖が出来ているんだろう。よく女流作家など、ベタベタとせんせーーーっとクラブに
ご招待して、具合良く新聞に書いてもらうというのをやっているのを目の当たりにしてい
た私だった。
このやくざ新聞記者の力は、本当だったよ。それまで数回京都でやっていたが、それ以
来、画廊が貸さないと言ってきたのだ。最も其の事件の次の日、画廊の女主人があんた
はん、京都新聞の泉先生になにはなしはったんどす。えらいことですわ。
っと血相代えて私に言いにきたんだった。

古色に包まれた京都は、新聞記者までやくざ的姑息な輩が横行しているのだ。
もっとも東京でもそうだった。
読売の村瀬という文芸部長は、女流作家に囲まれて、いい気なモンだったが、新聞社を
辞めて、驚いたことに自分が作家になりましたよ。そして、セントラル美術館に無償で会
場提供させて、美術年鑑に載せさせて、素人臭い作品をはずかしげもなく展覧に供して
商売をしようとしていたが、今頃は薄暗い処をうろうろしているかもしれないのだ。
まるで鬼検事が、止めて有能弁護士に早変わりすると言った、ヘンシーーんなのだ。
だから
日本の美術界は、なになに展はじめ、芸術院会員まで芸術家じゃなくて政治家敵やくざ
的に成り下がり、若い者の芽を摘んでいるんだよ。
あるご高名な彫刻家は、入門時にお願いしますっと、お辞儀した目の高さまで一万円札
を積めば、許可するというのだ。それが、だいたい6千万円だと聞いたことがある。田畑
売りはっらって金を作る人もいたとか。またいっとうはちらくと言う言葉も聞いた。8千万
円では落ちるが一億では芸術院会員に受かるというのだ。運動費用だそうだ。今ならも
っと数字が上がっているだろう。辟易とする、芸術とはほど遠い汚い世界に、嫌気がさし
始めていた頃だった。知らなきゃァ良かったのさね。

東京のセントラル美術館で個展をしたときだった。
奥の部屋では芸術院会員の先生と言われる知られてないじいさまのへたくそな絵が並ん
でいた。
聞くところによると、前の部屋でやらせてもらいますと封筒を包んで挨拶しなければなら
ないそうだったが、馬鹿らしいので無視した。

そのときは気合いを入れて500号のマーガレットの花一輪を描いて出した。
来客が多くて会場からはみ出してきたのだった。するとどうだ、くだんの芸術院会員先生
は、自分の入り口に金ぐさりを張り巡らせ、入ってくるなと言うのだ。
なんて狭量な薄暗い山の絵だと思ったら、心まで暗いじいさまだった。
そのときにそう言った関係の人が来て、ついでに見ていきがてら、君は傑作を描いたね
と誉めてくれる一点があった。しかし自分ではそれが傑作かどうか未だに判らないのだ。
北九州の平尾台の夢咲き村というログハウスのレストランにいまも展示して頂いている。
やがて戻してもらうつもりだが、未だに判らない。

よく働き良く描き、良く展覧会をして、年間最低でも150点以上は世に出て行った。
額代も年間300万円ほど使ったのだった。
16.7歳ころから最も良くつきあっていただいたのが、尾山台にあった美研という兄弟三
人でやっている画材やサンだった。売り出しの時など、じっくり眺めて一度に百万円も学
を買うのだった。それともう一軒、未だにおつきあいしているのが渋谷のウエマツ画材店
だった。おばあさまにはかわいがって頂き、貴重な絵の具など頂いたりしたものだ。もう
40年を越すおつきあいになった。
天然顔料しか使わなかったので、おばあさまに一番贅沢な絵描きさんですよと言われた
事が懐かしい。
日本画の材料、油絵、彫刻、版画と何でもやって、売りまくったのだった。

福岡名古屋京都大阪と飛び回っていた。
ほぼ二ヶ月毎に50点以上を転じ完売していった。
京都でのことだった。
偉そうな先生と呼ばれるおじさんと、若い画家が海上に様子見にやってきた。すぐ隣は
木屋町画廊で、ここはすみやという画廊だった。
お前達ナニしに来たんだっと言うのです。
御茶を出して、座ってから、私たちはルネッサンスを興そうと思ってますと、偉そうに返事
した。どうも新聞記者らしいので、新聞が記事にしたらそれで商売してるのでしょうからと
請求書を出すんですよ。っと言った途端に、此のおじさんは、御茶をふるえながら飲んだ
のだった。
京都の芸術は自分が造っているんだとも言っていた。
数時間後、画廊主のおばさんが飛んできて、あんたら泉先生になにいわはったんや!
もうあんたらは京都個展させんというてはったよ!

こいつらやくざか、京都新聞の文芸部長が、多かが新聞記者が画家達に先生と呼ばれ
て鼻高々だ。
しかし、閉鎖的な京都では、どこでも私の名前を聞いただけで、貸さなくなったのだ。
やくざの泉京都新聞文芸部長だと確かに確信した。
狭い心で芸術だとか言うなよ!
もらい癖ついているんだろうな!

木屋町画廊の主人で酒屋のおっさんが、毎日見に来て、

よーうれてはりまんなあ。ええなあ、このえなんか。。。。

と言ってくれるんで、画廊値段でいかがですかと言ったら

ただなら、もろときまひょか。
ときたもんだ。
これが京都でっせ!!!!!おーーこわ
大変失礼しました。
よほど記憶に残ったのかしばらく書かなかったので重複してしまいました。

私は事実を全部さらけ出して書きたいのですが、ご迷惑があちこちに掛かりますので。こ
こで中断します。
「絵師半生記」と言う本に詳しく書いてますので、アマゾンなどで見かけましたらご笑読下
さい。
戻る
戻る